”是非同じく説法なり。人我具(にんがとも)に消亡す。”
出典:遍照発揮性霊集

1117

「是」なるものも「非」なるものも、等しく仏の説法です。
仏のもとでは「人」も「自分」も等しい存在であり、ここの区別も存在しないのです。

人と自分の考えの違いはどこから生じるのでしょうか?
自分が正しいと信じている価値観や常識を疑ってみるだけで、思いもかけないひらめきや人生の気づきが得られるかもしれません。

物事の是非を問うことが説法ではありません。

是非が存在するということを認めたうえで、是も非も同じもので、この世の中は一体であることを感じればいいのです。

話は飛んでしまいますが、

テレビで、まな板を洗っても菌は落ちていません。
とか、
テーブル拭きには菌がいっぱい。

など、視聴者の不安を煽り、どんどん身の回りの菌を除去しなければという洗脳が渦巻いています。

それにより、私たちの周りに存在していた菌が消滅し、私たちはどんどん悪い菌に関する免疫がなくなってしまっています。

そもそも、私たち人間は一つの生体ではありません。
さまざまな微生物と共存しながら、一つの集合体として、生命を維持しているのです。

この世に存在する菌や微生物と体の中で共存していた状態から、悪影響があるからといって一部を取り除いていったわけです。

そうなると、バランスが崩れ、違った問題が出てくる。
起こった問題に対しても、今度は別の原因(菌)を取り除こうというループに陥っているのです。

私たちの体が集合体であるように、社会も集合体であり、国も地球も一つの集合体です。

宇宙までも一つの集合体なのです。

この世の中は一つであるがゆえに、対立する必要もなく、存在を認め、ともに模索しながら一つの集合体、生命体として生きていかなければいけないのです。

まずは、対立している相手を認めることから始めてみてください。